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2025/02/15

【初心者投資ブログ】2025年1月の投資振り返り(投資1ヶ月目)

株式投資を始めてみる!

 早速ですが2025年から株を始めてみました。今のところ楽しいです。はじめに今感じているメリットを挙げてみます。

投資信託から1年、株式投資に挑戦

 頑張って稼いだお金が減るなんて絶対にあり得ない!と銀行預金しかしていなかったが、2024年にNISAで投資信託を始めてみると、労せず大金が手に入ることに驚いた。これに味をしめた。

明日が楽しみになった!

 また変わり映えのしない毎日に飽きてきて、何か違うことをしてみたいと思っていた。株を始めてみると毎日、明日はどうなるのだろう?これからどうなるのだろうか?と、未来、明日が楽しみになった!

政治・経済ニュースが自分ごとになった

 アメリカ大統領や日銀など生活と遠いところにあったイベントが、自分ごととして経験されるようになった!これは面白い。始めて良かったと思っている。

2024年成長投資枠で購入した240万円分の投資信託を売却

 これについては議論の余地があるところでしょう。私は今年は2024年ほどはS&P500の投資信託で儲からないんだろうなと思いました。ですので、ここで利確してしまいそれを元手にもっと儲かりそうなものに投資したほうが良いのではないかと思ったのです。

 また若い今のほうがこの金額が大金であり、嬉しく思えると考えたのです。そしてそもそも5年で1800万円をストレートに埋められるほどお金を持っておりません。翌年には枠が復活するのですから、一気に240万円売却してしまいました!

2025年の成長投資枠を埋める

 そして2025年の成長投資枠も埋めました。2024年はみんな大好き「eMAXIS Slim 米国株式(S&P500)」に加えて、不安だったのでオルカン、と思いきや少し偏屈な部分が出て、別の運用会社にしようと思い「世界経済インデックスファンド」と半々にしていました。

オルカンは辞めました

 実績はS&P500が世界経済インデックスファンドの約2倍でした。240万すべてS&P500にしていれば。。。という思いが頭をよぎります。電車の中の広告で「世界経済インデックスファンド」の広告を見ていた安心感から買ってしまいましたが、そういう広告宣伝に力を入れているものはあんまり良くなかったりするケースもあると思い起こされます。

 ということで今年はS&P500一本足打法にしています。つみたて枠も同じです。これを書いている2月上旬時点では、今年は年初一括があまり良くないのかも、なんて話になっておりますが、どんな結末になるのでしょうか。2024年8月に狼狽売りをしなかった自分が偉いです。

初めての米国ETF購入&利確

個別株は怖いのでETF

 投資信託で味をしめたとはいえ、まだまだ個別株は怖いです。また投資信託は解約まで数日要するので、その間に暴落が起きたらどうしよう、と好きなタイミングで売れないことに不安も感じていました。そこでETF(Exchange Traded Fund、上場投資信託)に手を出してみました。

ビギナーズラック?

 初めて買ったのはVYM。長期で見てどう見ても上昇しているという安心感から買ってみました。とはいえ、やりたきことはスイングトレード。毎月3万円ぐらいお小遣いが増えたら嬉しいなという気分です。ビギナーズラックで手取り4万円ぐらい儲かりました。

口座と手数料、税金のはなし

 そして今回、初めて購入→売却の流れを経験することができたので、色々とわからないことが整理されました。今回、特定口座で取引をしたので確定申告はしなくて良いけれど、米国との二重課税を還付してほしければ申告しなければならないとか、特定口座で利益が20万円を下回って確定申告をしても払った税金は返してくれないとか。少なくとも損益分岐点となる25万円を目指そう!と思いました。

 また後に国内株の取引をして思ったのは、手数料もバカにならないなということです。儲かっていればまあ楽して儲けさせていただいているので、、、とお支払いできますが、そもそもの儲かるハードルが上がってしまうのですね。

 一方で、私は税金は平気です。不当に儲けている感があるので、全部自分が独り占めしてしまうより、勝手に持っていって世のため人のために使っていただけたほうがバチが当たらなくて良いんじゃないかと思います。

為替が気になる

 アメリカの強さにはあやかりたいところですが、為替は気になってしまいますね。手数料という意味もありますが、日本円での利益が気になる身では株価と為替、この2つが最高に良いタイミングを狙いたくなってしまうのが厄介です。

 今回、トランプ大統領の関税等で為替リスクが高かったようです。キャピタルゲインに加えて為替差益も得られればハッピーですが、為替差損が発生してしまった、、、なんてこともきっと気になってしまうでしょうから、米国株も考えものだなと思いました。

初めてのレバレッジ型ETF購入&含み損発生

 そしてスイングトレードをしたい身としては欲が出て、レバレッジ型のETFに手を出してみました。FXのレバレッジと違い、借金をすることはないはずです。なので3倍ブルみたいなもので、余剰資金で荒波を楽しもうと考えました。

 そこに襲いかかったのが「deepseekショック」でした……!なんとなくNVIDIA等も有名ですから半導体は儲かるらしいなんて生半可な知識でSOXLを買ったところ、deepseekショックが発生してしまいました。VYMを買ったときと同じ金額を突っ込んでいたら引退していたでしょうから、まだ幸いなのですが反省しました。

 直前で買ったので高摑みしてしまった感もあり、まだ含み損が出ています。直近はなんとか回復傾向にありますが。。。また暴落時にナンピン買いもしましたが、もっと買っておいても良かったと思いました。暴落時は絶望しますが、やはり底力はあり、そんなに柔じゃないのですね。

 なんとなくセクターに分かれているなら個別株より安心だろうと思っていましたが、不勉強を痛感しました。どんな要素があるとそのセクターが儲かるのか、はたまた損をするのかはちゃんと抑えておかなければならないですね。。。(ポケポケをやっていたのでDeNAを買っていたら…なんてことも思っちゃったりしました。イベント跨ぎをする勇気はございませんが)

株式投資1ヶ月目の総括

 と、いうわけで色々チャレンジしてみて、人生通算ではプラスなので総じて楽しく各指標をチェックしておりますが、含み損も出ている状況です。塩漬けしてしまっているので、このお金を別に運用できていたら、、、と身動きが取れないことをもどかしく感じます。

 とはいうものの、何か買いたい!保有しておきたい!というポジポジ病が良くないタイミングでsoxlを買ったことにもつながっていると思うので、一長一短ですね。株を見ていると、何事にも波がある、良いときもあれば悪いときもあると、人生観的なものを得られるような気もしています。

 幸い胃がキリキリするようなことにはなっておらず、2月には他にも新たに挑戦してみたことがありました。また2月末にでも振り返りをしたいと思います。随分と初々しい感想文になっている気がしますが、ぜひ次回をお楽しみに!

2025/02/11

【感想】『暇と退屈の倫理学』國分功一郎

久々の人文系読書。株に関心が出て実学に寄っていたので、ありがたいゆり戻し。行ったり、来たりすることが大事だと思い出した。

「好きなこと」とは何か?

人類は豊かさを目指してきた。なのになぜかその豊かさを喜べていない。余裕のある社会になって人々が時間を費やす「好きなこと」は、必ずしもそれまで「願いつつもかなわなかったこと」ではない。

暇と退屈の原理論

パスカルは人間は<欲望の対象>と<欲望の原因>を取り違えているという。気晴らしのウサギ狩りはウサギが欲しいから狩りをするのではない。ウサギ狩りに行く人に、ウサギを手渡しても嫌な顔をされるだけだ。

ラッセルは『幸福論』で、20世紀初頭のヨーロッパでは、すでに多くのことが成し遂げられていて、これから若者たちが苦労してつくり上げねばならない新世界などもはや存在せず、彼らは不幸である。それに対し、ロシアや東洋諸国ではまだこれから新しい社会を作っていかねばならないから、若者たちは幸福であると主張した。

しかしこの「新世界の建設」も「ウサギ狩り」と変わらない。また現代のそれなりに裕福な日本社会に生きる若者を、発展途上国で汗水たらして働く若者たちと比べて、「後者のほうが幸せだろう」と言うのに等しい。不幸への憧れを作り出す幸福論はまちがっている。

暇と退屈の系譜学

<定住革命>私たちは定住生活を前提として、遊動生活について価値判断を行っているが、やむを得ず定住化したと、考え直す。稲作到来以前に定住生活は始まっており、食料生産は定住生活の結果であって原因ではない。中緯度地域における温帯森林環境の拡大により狩猟が困難になり、貯蔵が必須の条件となった。貯蔵は移動を妨げ、定住を余儀なくされたと考える。持て余した能力を別の場面で発揮することが、「文明」を発生させた。

暇と退屈の経済史

20世紀の大衆社会では、ブルジョワジーのみならず大衆、労働者に余暇(レジャー)の権利が与えられた。フォードは生産性を向上するために労働者をおもんぱかった。その逆ではない。フォードは労働者の労働時間を制限し、十分な休暇を取ることをもとめた。一方、労働者が休暇中に何をしているのかを探偵やスパイに調査させていた。労働者も禁酒法に賛成していた。

こうしてレジャー産業が誕生する。レジャー産業の役割とは、何をしたらよいか分からない人たちに「したいこと」を与えることだ。レジャー産業は人々の欲求や欲望に応えるのではない。人々の欲望そのものを作り出す。土曜日のテレビでは、日曜日に時間的・金銭的余裕をつぎ込んでもらうための娯楽の類を宣伝する番組が放送されている。

ガルブレイスは消費者主権モデルの崩壊を指摘しながら、「新しい階級」の拡大が社会の目標だとする。それは「仕事こそが生き甲斐だ」と感じる人々の層である。しかし「仕事が充実するべきだ」という主張は、仕事においてこそ人は充実していなければならないという強迫観念を生む。人は「新しい階級」に入ろうとして、あるいは、そこからこぼれ落ちまいとして、過酷な競争を強いられる。

新しい階級の子どもたちは小さい頃から、満足の得られるような職業――労働ではなくてたのしみを含んでいるような職業――をみつけることの重要性を念入りに教えこまれる。新しい階級の悲しみと失望の主な源泉の一つは、成功しえない息子――退屈でやりがいのない職業に落ち込んだ息子――である。こうした不幸に会った個人――ガレージの職工になった医者の息子――は、社会からぞっとするほどのあわれみの目でみられる。

暇と退屈の疎外論

ボードリヤールは浪費と消費を区別する。浪費はどこかでストップする。しかし消費は止まらない。消費の対象は物ではなく、観念や意味だからだ。消費社会は、私たちが絶えざる観念の消費のゲームを続けることをもとめる。ガルブレイスが歓迎した仕事に生き甲斐を見出す階級の誕生も、消費の論理を労働にもち込んでいるにすぎない。彼らが労働するのは、「生き甲斐」という観念を消費するためなのだ。

暇と退屈の哲学

ハイデッガーは退屈を三つの形式に分ける。第一形式は「何かによって退屈させられること」、第二形式は「何かに際して退屈すること」。ただし第二形式では、パーティーに際して退屈しているが、実は同時にそのパーティーが気晴らしである。退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合っている。そして第三形式は「なんとなく退屈だ」である。

暇と退屈の人間学

ここでユクスキュルの「環世界」が登場する。人間が頭のなかで抽象的に思い描く「世界」(環境)は虚構である。それぞれの生物はそれぞれの環世界を生きている。ダニはダニの。森で森林浴をしようとする散歩者、狩りをする猟師、森林の状態を検査する森林検査官。彼らは一つの同じ森を同じように経験するだろうか。

一つの環世界から別の環世界へと移行することの難しさについてユクスキュルは盲導犬を挙げる。訓練を受けた盲導犬がすべて盲導犬としての役割を果たすようになるわけではないのは、犬が生きる環世界のなかに、犬の利益になるシグナルではなくて、盲人の利益になるシグナルを組み込まなければならないからである。要するに、その犬の環世界を変形し、人間の環世界に近づけなければならないのだ。

人間はその他の動物とは比べ物にならないほど容易に別の環世界へと移動する。宇宙物理学について何も知らない高校生でも、大学で四年間それを勉強すれば、高校のときとはまったく違う夜空を眺めることになるだろう。作曲の勉強をすれば、それまで聞いていたポピュラーミュージックはまったく別様に聞こえるだろう。

それだけではない。人間は複数の環世界を往復したり、巡回したりしながら生きている。たとえば会社員はオフィスでは人間関係に気を配り、書類や数字に敏感に反応しながら生きている。しかし、自宅に戻ればそのような注意力は働かない。子どもは遊びながら空想の世界を駆け巡る。彼らの目には人形が生き物のように見えるし、いかなる場所も遊び場になる。しかし学校に行ったら教師の言うことに注意し、友人の顔色に反応しながら、勉強に集中しなければならない。

人間が極度に退屈に悩まされる存在であるのは、人間は一つの環世界にひたっていることができない、とどまっていられないからである。環世界を容易に移動できることは人間的「自由」の本質なのかもしれない。しかし、この「自由」は環世界の不安定性と表裏一体である。何か特定の対象に<とりさらわれ>続けることができるなら人は退屈しない。しかし、人間は容易に他の対象に<とりさらわれて>しまう。

暇と退屈の倫理学

ハイデガーは決断を推奨するが、決断という「狂気」の奴隷になることに他ならない。第三形式と第一形式は最終的に区別できない。「なんとなく退屈だ」の声が途方もなく大きく感じられるとき、人間は第三形式=第一形式に逃げ込む。仕事・ミッションの奴隷になることで安寧を得る。

「資格をとっておけば安心だ」という声に耳を傾けていれば、苦しさから逃れられる。しかも、世間からは「一生懸命頑張っているね」と褒めてもらえる。というか、周囲は褒める以外にない。それは、好きで物事に打ち込むのとは訳が違う。自分の奥底から響いてくる声から逃れるために奴隷になったのだから。

おそらく多くの場合、人間はこの声をなんとかやり過ごして生きている。そのために退屈と気晴らしとの混じり合いのなかで生きている。そうして「正気」の生を全うする。人間の生徒は退屈の第二形式を生きることである。

環世界論の考え方から言えば、習慣を創造するとは、周囲の環境を一定のシグナルの体系に変換することを意味する。毎日、目に入ってくるすべてのものに反応しているととても疲れてしまう。人間はものを考えないですむ生活を目指している。

ドゥルーズは、人間がものを考えるのは、仕方なく、強制されてのことだという。「考えよう!」という気持ちが高まってものを考えるのではなくて、むしろ何かショックを受けて考える。そのショックのことを「不法侵入」とも呼んでいる。

世界を揺るがすニュースでもいい、身近な出来事でもいい、芸術作品でもいい、新しい考えでもいい。環世界に「不法侵入」してきた何らかの対象が、その人間を摑み、放さない。その時、人はその対象によって<とりさらわれ>、その対象について思考することしかできなくなる。

考えるとは何かによって<とりさらわれ>ることだ。そして、衝動によって<とりさらわれ>て、一つの環世界にひたっていることが得意なのが動物であるのなら、この状態を<動物になること>と称することができよう。人間は<動物になること>がある。

人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと「不法侵入」を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することができる。この環世界の想像が、他の人々にも大きな影響を与えるような営みになることもしばしばである。たとえば哲学とはそうして生まれた営みの一つである。

結論

際限のない消費によって満足が遠のき、退屈が現れる(疎外)。物を受け取れるようになることが、贅沢への道を開く。ラッセルは「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」と述べている。訓練が必要なのは「教養」を必要とするいわゆるハイカルチャーの娯楽だけではない。食のように身体に根ざした楽しみも同じく訓練を必要とする。

楽しむことは思考することにつながる。楽しむことも思考することも、どちらも受け取ることである。人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていく。どんなにすばらしいものであっても、誰もがそれにとりさらわれるわけではない。ならば自分はいったい何にとりさらわれるのか? 人は楽しみながらそれを学んでいく。

ドゥルーズは、「なぜあなたは毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか? その努力はいったいどこから来ているのか?」という質問に「私は待ち構えているのだ」と答えた。ドゥルーズは自分がとりさらわれる瞬間を待ち構えている。そして彼はどこに行けばそれが起こりやすいのかを知っていた。

自分にとって何がとりさらわれの対象であるのかはすぐには分からない。そして、思考したくないのが人間である以上、そうした対象を本人が斥けていることも十分に考えられる。しかし、世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。<人間であること>を楽しむことで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。

何かおかしいと感じさせるもの、こういうことがあってはいけないと感じさせるもの、そうしたものに人は時折出会う。自分の環世界ではあり得なかったそうした事実を前にして、人は一瞬立ち止まる。そして思考する。しかし、それを思考し続けることはとても難しい。なぜなら、人は思考するのを避けたいからである。けれど、<動物になること>をよく知る人なら、何かおかしいと感じさせられるものと受け取り、それについて思考し続けることができるかもしれない。そして、そのおかしなことを変えていこうと思うことができるかもしれない。(中略)退屈と向き合う生を生きていけるようになった人間は、おそらく、自分ではなく、他人に関わる事柄を思考することができるようになる。それは<暇と退屈の倫理学>の次なる課題を呼び起こすだろう。

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