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2024/06/10

【要約&感想】『センスの哲学』千葉雅也

 本書は『勉強の哲学』、『現代思想入門』に次いで、千葉雅也さんの著す入門書3冊目。これまでの著作の言葉を借りれば、センスとは何かを「仮固定」した上で、「脱構築」するとのこと。まずはセンスを「直感的にわかる」こと、と定義される。この本で語られるのはセンスの良し悪しの彼方にあるものだ。みんな違ってみんないい、ではなく人間のどうしようもなさ、翳りのある話だという。

第1章 センスとは何か

 議論は「選ぶセンス」からはじまる。美術も音楽も何もない状態から作られることはなく、見たこと聞いたことがあるもの、記憶の素材から、なんとなく選び、組み合わせて変形される。買い物も「もの選び」である。

 また「センスが悪い」という物言いを避け、もの選び、ものの組み合わせに自覚的ではない「センスに無自覚な状態」という表現をする。しかし意識的すぎるもの選びや作品は、かえって何かが足りない感じがし、「無意識」が必要であるという。

 「上手い/下手」に対して、「ヘタウマ」という言葉がある。再現を主にする場合、ズレはミスになるが、モデルを目指すことから降りたものは「ヘタウマ」として評価される。AIの学習データが多いこと、文化資本が多いことは特定のモデルに執着しなくなり、「こなれる」ということでもある。再現志向から降りよう。

第2章 リズムとして捉える

 何らかのモデルを目指すことは、意味を求めることである。しかし本書では意味よりも、ものごとがそれ自体(リズム)としてどう面白いのか、という観点が重視される。これは19世紀から広がったモダニズムの考え方だ。

 宮台真司は「意味から強度へ」というフレーズで有名になったそうだ。強度とはドゥルーズの言葉で、意味ではなく「存在感」、ただそれ自体の価値をいう概念だという。「強い」ほうが良いのではなく「強弱」、今日の言葉でいう「エモい」であり、本書では「リズム」と言い換えられる。

 宮台は当時「コギャル」と呼ばれていた女子中高生たちの生活に着目した。何か「意味があること」をしようとせずに、みんなでファミレスで適当にだべったり、そのときのなんとなくの空気が楽しければいいという生き方。これを「まったり」と表現したそうだ。ファミレスでの会話には波があり、テンションの上下を楽しんでいる。

 リズムは音楽だけでなく、物や味(温度)にもある。「反復と差異」がリズムである。どんなことでも、デコとボコの並べ方であり、刺激をどのタイミングで出すか、そのタイミングの面白さがものの面白さであるといえる。(しかし反復あってこその差異である。)

第3章 いないないばあの原理

 「センスが目覚めてくる」とは、これは何だろうとか、こんなことをして何になるんだという理屈の次元を離れて、ものを見て聞いて、そこにある要素の並びに体が反応して、そのリズムに乗って体が揺れてくるみたいな、意味がなく楽しい、つまり「強度的」なノリに入ることだという。

 リズムとは生成変化のうねりであると同時に、ビート(存在と不在の明滅)である。単純化すれば刺激はひとつひとつ0/1(凸凹、図と地、出来事)であるが、実際にはディティールが複雑に絡み合い、さまざまなパラメータにわたる多重の「変化」に乗っている。マルチトラックのように。

 小説などの物語では「宝物を探しに行く」(=欠如を埋める)というのが基本形式だ。途中にいろんなハードルを仕掛けることで、解決を遅らせて、読者の関心を引き留め続ける。それに特化すると、エンターテイメント的な性格の強い作品になる。それに対し、欠如を埋めることに直結しない、その脇にあるようなディティールが豊かになると、「純粋芸術」的性格が出てきて、エンタメとしてはわかりにくいものになる。ビート的にハラハラドキドキを楽しむのと、微妙な中間色的なところに分け入っていく、うねりの楽しみという二つのアプローチがどちらも重要なのだ。

 何らかの対立が、デコボコがあるときに、「刺激を抑えて安定したい」というのは生物としての大きな傾向である。それと同時に、人間はそこに、「誰かがいない寂しさ」、「寂しさを埋めたい」というドラマ的何かを感じている。(人間の場合、非常に弱い状態で生まれ、長期間、生き延びて生育するために誰かを必要とする。)

 遊びは、わざと不安定な状態、緊張状態を作り出して、それを反復することを楽しむことである。物語における「サスペンス」とは、意図的に作られたストレスのことであり、サスペンスは「いないいないばあ」に相当する。英語では「宙づり」という意味である。解決に至るまでが緊張状態として遅延され(宙ぶらりんになり)、小さな山が次々に発生し、そのひとつひとつに0→1の小さな解決がある。その連続と重なりがうねりを生んで、複雑なリズムになる。

 「ていねいな暮らし」もサスペンス的に捉えられ、丁寧にコーヒーを淹れることはわざと目的達成を絵遅延し、その「途中」を楽しんでおり、まさにサスペンス構造だそうだ。<サウナなんか特にそうでは?>

第4章 意味のリズム

大きな意味から小さな意味へ

 第4章では「意味」とは何かを考える。むしろ私たちが「意味だと思っているもの」までリズムの形にしてしまう。

 ある映画に、全体としてどういう意味があるか(大意味)と問うなら、たいがいは「人を愛することが大切だ」とか「戦争はいけない」とか、その程度の単純な結論にしかならない。全体の意味がわからないと気持ち悪いというのも理解できることだが、「部分が面白ければそれで十分」という態度もありうるだろう。部分部分(小意味)を見ていくと、より複雑な、ひとことでは言えないような感覚、リズムが浮かび上がってくる。

恋人と旅行に出かけるという例を考えてみましょう。その旅行に全体としてどういう意味があったのかと問うてみると、より二人の仲が深まったとか、距離が生まれてしまったとか、そんなざっくりした感じになると思います。でも、旅の途中でお昼を食べるところを探したとき、相手の店選びに自分とは違う面白い目のつけどころを感じたとか、海を一緒に眺めていたときに共感できる場面があったとか、地元の食材の話をしていて味の好みが違うと感じたとか、何気ない発言に不思議なユーモアを感じたとか、いろいろなことがあるわけです。

p.102

 芸術ではかつて「立派な大意味がないものはダメだ」というのが主流だった。ここに蓮實重彦的な「フォーマリズム」(形を重視する)が権威的な意味付づけをちゃぶ台返しにする「反抗」が一時期流行った。しかし今度はそれが権威になってしまう「ツッパリ・フォーマリズム」となってしまった。

 平熱のフォーマリズムを目指すために「感動を半分に抑え、ささいな部分を言葉にする」ことが重要だ。旅行の例でも、今回の旅はよかったな、こうやって仲良くなれてよかった、という大きな感想をもったとする。しかし、よくよく振り返ると、細かいところに不安定な感じがあったり、違いに気づいたりもしている。だからダメというわけでもない。そういう複雑さを味わいとして享受する。

 ひとことで言えないから、わからなかった、要するにどういう意味? ということになりがちだが、その先へとセンスを開いていくには、小さなことを言語化する練習が必要である。それは、重要とは思えないちょっとした何かでも、どうなっているかを「観察」して言語化する練習だ。

意味とは

 意味とは言葉によって担われるものである。言葉が発しているもの=意味は、ただの形、つまりリズムとして捉えるような見方もできる。たとえば、「熱い」と「赤」、「血液」、「勇気」といったものは近いものとして連想的に集合をなす。その一方で、「熱い」と「冷たい」は対立、または距離が遠い関係にある。この距離はデコボコであり、グラデーションが展開していると見ることもできる。

 物語では、人物をメインとして流れを追うこともできるが、オブジェクトや風景、空気感などの変化に重心を置いて、複雑なオーケストラのように物語を捉えることもできる。ディティールがどう組み合わさって作品になっているか構造を見ることで得られる感動を「構造的感動」と呼ぶ。

 生物としてのサバイバルも重要なため喜怒哀楽を中心とする大まかな感動が先に来るがそれを半分に抑えよう。人間は社会的動物であると同時に、もっと自由に想像力を展開する力がある。生存に直結しない無駄を楽しもう。意味のリズムから見ることは、ミステリといったエンターテイメント小説と、いわゆる純文学作品を橋渡しすることになる。

第5章 並べること

 「並びとして見る」鑑賞者、消費者の立場から「並べる」という言葉で制作の側へ橋渡しされる。

 人間は予測通りだと心地よい(反復)ことをベースに、予測が外れること(差異)にも喜びを見出す。ただしこれをリズムとして面白く受け止められるには、予測誤差に耐性があることが条件となる。遊びやゲーム、フィクションの鑑賞によって、世界の不確実性を手懐けることができる。

 作り手サイドは何をどう並べてもいい。映画の複数ショットの並びに対して脳が物語化を行なうように、原理的に人間はリズムを見出そうとするから。抽象化によって一見つながっていないものをつなげることができる。「波」と「都会の人混み」はザワザワ、「家」と「段ボール」は箱のように。また極論、すべてのものは「存在している」という点において共通する。

 何をどう並べてもつながりうるし、すべてはつながり方の設定次第である。その上で、面白い並びにするために「制約をかけていく」という方向で考える。

第6章 センスと偶然性

 面白いリズムとは、ある程度の反復があり、差異が適度なバラツキで起きることである。このバランスが「美」と呼ばれるものとされる。美学理論では「美」と「崇高」が対比されるそうだ。崇高とは険しい山、岩石だらけの荒涼たる土地、荒れ狂う嵐の海のような、人間がそれを捉えようとしてもフレームからはみ出してしまうようなエネルギー、無秩序、壮大さがあるものだ。

差異とは予測誤差であり、予測誤差がほどほどの範囲に収まっていると美的になる。それに対し、予測誤差が大きく、どうなるかわからないという偶然性が強まってくると崇高的になる。

 偶然性、自由な運動性から始めるとヘタウマ的なセンスになる。こうでなければいけないというモデルに近づけようと、きっちり合わせることを目標にしてしまうと、自由がなくなって窮屈になる。センスの良さというのは「余り」である。

 目指すものへの「足りなさ」をベースに考えると、それを埋めるようにもっとがんばらなきゃという気負いが生まれ、偶然性に開かれたセンスは活性化しない。何かをやるときには、実力がまだ足りないという足りなさに注目するのではなく、「とりあえずの手持ちの技術と、自分から、湧いてくる偶然性で何ができるか?」と考える。人生の途中の段階で、完全ではない技術と、偶然性とが合わさって生じるものを、自分にできるものとして信じることが必要なのだ。

第7章 時間と人間

 芸術とは、時間をとることである。答えにたどり着くよりも、途中でぶらぶらする、途中で視線を散歩させるような自由な余裕の時間が、芸術鑑賞の本質だ。ラウシェンバーグの抽象絵画で説明されたように、よくわからない作品であっても、それをリズミカルな構成物として楽しむという見方がある。買い物のように途中であれこれ迷うことが楽しい。面倒でもあるけれど楽しい。不快と快の共存がある。

 ベルクソンは無生物と生物を、時間がとれるか、という一貫したグラデーションで捉える。犬のお尻をペンペンと叩くとどう反応するかは、それなりに予測不能だ。しかし、ビリヤードで黄色い9のボールをペンペンと叩いたらどうなるかは予測できる。もし犬のようにその後の展開が予測不能だとしたら、9のボールをペットにできる。物質は、作用・反作用に隙間がないが、生物は「作用・反作用のカップリング」がゆるくなる。最もゆるんだ生物種が人間だ。

 芸術は想像力の広がりを示すと同時に、自分には思いつかないような、ものの限定の仕方を教えてくれる。アーティストは、多すぎる可能性のなかで、作品という有限なものを仮固定する。たくさんの例を見ることで、仮固定でいいんだということがわかってくる。多様な芸術があるということに近づくと、人生の多様性を肯定できるようになる。

 人間は、他の動物に比べて、非常に大きな可能性を余らせている存在であり、だから遅延を生きている一方で、やはり動物なので、目的を最短で達成しようとする傾向もある。この二つが綱引きをする。さっさと目的達成ができることが快である面もあり、他方で、まさに人間らしさとして、途中でまごまごすること、サスペンスを楽しむ面もある。サスペンスは不安、不快でありながら面白い。ラカン的享楽です。

第8章 反復とアンチセンス

 作品が人を捉え、深く思考させるのは、「問題」が「問題」として提示されるから。「問題」は繰り返し浮上するもの、反復するものである。フォーマリズムによって善悪や恨みつらみといったドラマよりも、この作者はどういう感覚に敏感なのか、といった深い次元が捉えられるようになる。

 作品の傾向には、その作者独特のもの、個性が表れる。個性とは、何かを反復してしまうことである。芸術は、それを作る人の「どうしようもなさ」を表す。芸術の軸足は、身体的な癖と言えるような反復の方にある。公共性に軸足があったら、こんなあり方をしてはいけない、直しなさいという話になる。公共性と身体性のどちらに軸足があるかが、エンターテイメント的なものと芸術的なものを分ける。

 ほどほどのばらつきを備えたアウトプットならば、何の「問題」も持っていないAIでも生成できてしまう。重要なのは、反復の「必然性」だ。生物として、刺激の嵐のなかで、おのれの主体性を仮固定するためにその反復が必要だった、そうするしかなかった、という必然性。反復と差異のバランスという意味でのセンスの良さを台無しにすることもある「アンチセンス」。執拗なるものとしての必然性を持ちつつも、たまたまそうなってしまっているという偶然性を両義的に帯びている問題が、反復と差異のセンスを引き裂く。人が持つ問題とは、そうならざるをえなかったからこそ、「そうでなくてもよかった」という偶然性の表現でもある。


2024/04/29

【要約&感想】『孤独と不安のレッスン』鴻上尚史

 東畑開人さんの『聞く技術聞いてもらう技術』の中で、「孤立」と「孤独」という言葉が出てきた。「孤独」についてはこの本が欠かせない。再読した。

本当の孤独とは

 孤独になることで自分が「本当は何をしたいのか?」「本当は何を考えているのか?」を知ろう。しかし部屋に一人でも、メールやチャットで盛り上がっている時は「本当の孤独」ではない。「本当の孤独」とは、自分とちゃんと対話することだ。まずは恥ずかしくない孤独を体験してみよう。浜辺でぼーっと考えるのは一人が様になる<個人的にはファミレスで作業するのもおすすめ。ソロ活>。

思い込みから逃れる

 「一人であること」が苦しいのではなく、「一人はみじめだ」という思い込みが苦しいのだ。『禁煙セラピー』という本の次の文章が紹介される。思い込みの力は大きい。

ニコチンが切れるとみんなイライラし始める。夜中、タバコがなくなると、みんな、もうどうしていいか分からなくなる。それはニコチンの禁断症状が強いからだと言われている。でも、寝ていてニコチンが切れたからといって目が醒めた人はいない。でも、コカインやLSDは、禁断症状で目が醒める。つまり、ニコチンの禁断症状は、じつは、とっても弱いものなんだ。ニコチンが切れても、目が醒めないんだから。じゃあ、何故、夜中にタバコが切れると絶望的な気持ちになるのか? それは、ニコチンの禁断症状は強いもんだという思い込みがあっただけなんだ。思い込みだから、それをやめれば、すむだけの話なんだ

深呼吸して体の重心を下に

 焦っている人は体の重心が上になり、腰が引け、頭や胸を突き出して動くという。一方で落ち着いた人は、どっしりと腰の辺りで動いている感じがする。丹田と呼ばれるおへそから握り拳ひとつ下の部分に集中してみよう。息を深く吸って、丹田あたりに入れると意識してみよう。

日本人と『世間』

 村八分という言葉があるように、日本社会において世間は絶対だった。しかし明治政府は国家を強くするために村落共同体の力を弱め、世間ではなく天皇が神だと設定した。このため『世間』の力は中途半端に壊れているが、日本人にとって世間は未だ神様であるから、みんなが「ラーメンが食べたい」というなら、カレーを食べたくても「わたしも」と言う。

 また世間様をなくしてしまうと、欧米人が「それは神が許さない」と言えばすむことを、ひとつひとつ自分の言葉ではなさなければいけなくなり、大変なエネルギーと時間がかかる。

『他者』と『他人』

 『他人』とは、受け入れる必要も気持ちもない関係のことだ。大好きで大嫌いで、別れようとして別れられなくてにっちもさっちもいかない関係は『他者』の関係になる。

 夜中の三時に歌を歌う隣人は、引っ越しを決めた時点で『他人』になる。しかし引っ越し費用がまったくなかったり、マンションを買った場合には、腹を括って本気で交渉しようと決めるだろう。このとき隣人は『他者』としてあなたの前に現れる。

 さまざまな理由から誰かを理解したい、理解しないといけないと思ったとき、その誰かは『他人』から『他者』になる。『他人』と『他者』の違いは、あなたの思いひとつなのだ。

 コミュニケイションをあきらめなければ『他人』は『他者』になる。やっかいな『他者』とどうつきあえるかが、その人が成熟しているかどうかのバロメーターになる。

『何も言わなくても分かってくれるもう一人の自分』

 『何も言わなくてもわかってくれるもう一人の自分』なぞ存在しない。愛した人も、家族も、親友も『他者』であり、プラスとマイナスの両方がある。甘やかされて育つと親は『何も言わなくても分かってくれるもう一人の自分』になるが、とりわけ進学・就職、恋愛・結婚のタイミングで『他者』であることに気づかされる。

不安になるのは自分に関心が向いているから

 不安になったときは、誰かに何かをあげようと考えよう。筆者はそれを「おみやげ」と呼んでいる。物でも、お話でも、笑顔でも、誰に何をあげようと考えるだけで、不安にフォーカスすることを自然にやめることができる。

『ありたい自分』

 『ありたい自分』が『今ある自分』に対して攻撃してくる。「僕は、作家の✕✕が好きで」と人前で言おうとすると、「そんな名前だしていいのか? バカだと思われないか? どうして、もっとカッコいい作家の名前を出さないんだよ。✕✕なんかダメじゃないか。どうして、〇〇を読んでないんだよ」と。

 『ありたい自分』に聞くのではなく、目の前の現実の相手に聞いてみよう。経営者としても優れていたジャイアント馬場さんの経営哲学はただひとつ「他人から聞いた話は、直接本人に確かめるまでは信じない」だったそうだ。

 また稀に、「ありたい自分」が「今ある自分」より下にいる人がいるという。「私なんかどうせダメだし、バカだし、ブスだし」と言っているのに、充分、魅力的で賢い人の場合だ。「自意識」が低すぎるのだ。

 この場合も、現実の人間と対話しながら、「今ある自分」と「ありたい自分」の位置関係を修正していくしかないという。小さな勝ち味を積み重ねることで、少しずつ「今ある自分」は自信を取り戻し、「ありたい自分」は小さくなるのだ。

「自信がないとやれないんなら、一生、やれないなあ」

 根拠のないものに、根拠を求めないと安心できない人は、どんなになっても不安に苦しめられるという。会う人すべてが、「君はプロとしてやっていける」と太鼓判を押すなんてことはありえない。もし、奇跡的に会う人すべてが「プロとしてやっていける」と言ったとして、デビュー作を見事な演技で飾れたとしても、「じゃあ、次の作品は、こんなにうまくいくだろうか?」という不安はつきまとう。

 常に不安を感じながらも、「クラスメイトはなんて言うだろう?」「プロの俳優さんはなんて言うだろう?」「プロの演出家さんは?」と、不安をエネルギーにして、ステップを進めることができれば、それは「前向きの不安」として肯定される。

有能なサラリーマン

<「有能なサラリーマンであり続けるためには、自分の欲望はじゃまなのです」この一文からは空虚な人として「有能な」が皮肉めいて聞こえる。一方で次の文章では、自と他が融和したあるべき姿に思えてくる。

「有能なサラリーマンは、常に、自分ではなく、相手が何を求めているのか、相手が何を言いたいのか、ということを考え続けるのです。そして、相手の欲望を満たすことに満足するようになるのです。そして、相手の欲望を満たすことに満足するようになるのです。」>

その他書き抜き

  • もともと、「うざい」という言葉には、人間関係を強制してくる相手に対する嫌悪感があると僕は感じます
  • 100点を目指すのではなく、67点の人生を認める
  • 人間は、見たいものしか見ない
  • あなたが出会う人は、あなたの水準と対応します
  • 友達ができればラッキーだけど、あわない人と無理に友達にならなくてもいい。一人でいてもそれは普通のこと
  • 「ああ、どうして、一回失敗したら、もう全部を投げるんだろう!? ここからどれくらいふんばるかが、人生じゃないかあああ!」
  • 「考えること」と「悩むこと」は違う
  • 仕事でうんと頭を使ったら、同じくらい体を使うのが理想です
  • あなたがおみやげを忘れても、許して、支えてくれる人を2人、持つことが目標です
  • 相手が素敵だからではなく、自分が孤独で淋しいから、多くの人は恋愛をするのです。それは人間として普通のことなのです
  • 連帯をもとめて孤立を恐れず/力及ばずして倒れることを辞さないが/力尽くさずして挫けることを拒否する
  • 一人っ子が増えていくことで、(略)『孤独と不安』のレッスンを受けるチャンスがぐっと減ってしまった
  • 人間関係は、学習していくものです。初めから、適切な距離が取れる人と下手な人がいるのではないのです。


2024/04/28

【要約&感想】『聞く技術 聞いてもらう技術』東畑開人

まえがき

 実は「聴く」よりも「聞く」ことのほうが難しい。「ちゃんときいてくれない」と言うとき、「聞いてくれない」であって、「聴いてくれない」ではない。言っていることをそのままに受け止めてもらうことが難しい。しかし話を聞けないのは話を聞いてもらえていないからだ。

聞く技術 小手先編

  1. 時間と場所を決めてもらう
  2. 眉毛にしゃべらせる
     反応はオーバーに
  3. 正直でいる
     ちょっと思っていることならオーバーに言っても問題ない。嘘になるなら黙っておこう
  4. 沈黙に強くなる
  5. 返事は遅く
  6. 7色の相づち
     7種ぐらいあると聞いている感が出るらしい。
     うーん、ふーん、なるほど、そっか、まじか、だね、たしかに
  7. 奥義オウム返し
  8. 気持ちと事実をセットに
     片方で語っていたら片方を尋ねる
  9. 「わからない」を使う
     「私だったらこう思いそうな気がするけど、なんであなたはそう思うの?」
  10. 傷つけない言葉を考えよう
  11. なにも思い浮かばないときは質問しよう
  12. また会おう
  13.  とはいえ、余裕があるときは小手先がなくても聞けている。余裕がないとき(相手との関係がギクシャクしているとき)は、「聞いてもらう」ことから始めよう。

    第1章 なぜ聞けなくなるのか

    政治とは本質的に孤独を伴う仕事なのだと思う。人々の対立する利害を調整しようとするならば、当然両方の側から「わかっていない」「ちゃんと聞いていない」と突き付けられる。だから、政治家は孤独に強くなくてはならない。シビアな場に一人で踏みとどまり、遠い他者の声を聞く力が必要なのだ。

    東畑開人『聞く技術聞いてもらう技術』p.51-52

     <大変に正鵠を射た文章だ。なにも政治家に限った話ではない。「社内政治」という言葉もあるように、誰しもが政治を行なっている。部署と部署、AさんとBさんの板挟み。対立している当事者どうしも、調停役のわたしも、みな孤独なのだ。>

     ここで精神分析家のウィニコットの「対象としての母親」と「環境としての母親」が紹介される。前者は頭に思い浮かべるひとりの人としての母親だが、後者は食事が用意されたり洗濯物が畳まれていたりすることで立ち現れてくる母親だ。母親に限らず、電力会社などアンサング・ヒーローのことだ。

     「環境としての母親」は失敗することで意識されるが、そのことで子どもは大人になれる。パーフェクトな母親だと、『千と千尋の神隠し』の「坊」になる。<失敗してもいいのだ。これは誰かを育てる立場にある者を勇気づける。>この話は「聞く」ことも普段は意識されず、失敗することで気づかれることに共通する。

     失敗が短期間のうちに解決されるなら問題はない。だが、それができないときは「聞く」しかない。聞くことは痛みを和らげる。

    みんな、心の中では、がんばらなきゃと思って生きているし、実際のところめちゃくちゃがんばって生きています。これ本当ですよ。

    東畑開人『聞く技術聞いてもらう技術』p.75

    第2章 孤立から孤独へ

     孤立しているとき「心の中に暴力的な他者」がいる。想像上の悪しき他者の「お前は迷惑だ」の声が吹き荒れている。

     <重要なのは「想像上の」ということだ。別の言い方をすれば「仮説」である。それは事実か?裏取りをしよう、というメッセージでも希望は見えてくるのではないだろうか>。

     一方で「孤独」は安定した現実が前提となっている。ホームレス支援でも「ハウジングファースト」という発想がある。

     解決には時間がかかる。そして同じ人の中でも複数の心が綱引きをしているのだ。

    聞いてもらう技術 小手先編

    ◯日常編(体を一緒に置いてみよう)

    1. 隣の席に座ろう
    2. トイレは一緒に
    3. 一緒に帰ろう
    4. Zoomで最後まで残ろう
    5. たき火を囲もう
    6. 単純作業を一緒にしよう
    7. 悪口を言ってみよう

    ◯緊急事態編(この技術を使っている人に協力しよう・声をかけよう)

    1. 早めにまわりに言っておこう
    2. ワケありげな顔をしよう
    3. トイレに頻繁に行こう
    4. 薬を飲み、健康診断の話をしよう
    5. 黒いマスクをしてみよう
    6. 遅刻して締切を破ろう

    第3章 聞くことのちから、心配のちから

     「聞く」ことはプロの心理士だけでなく、ごく普通の人も行なっている。しかし専門知に対して、「先輩の話」のような世間知は弱体化する時代にある。どちらが良いというものではない。世間知では理解ができないものを、専門知が名前を付けて(病名のように)、知識を与えてくれる。「ふつう」という世間知は包摂と肯定に使われるとき薬となる。

    ◯「ふつうそれはおかしいよ」「ふつうそんな言い方しないよ」
    ✕「それくらいふつうじゃない?」

    人生の不幸とか失敗とか、そういうものをなんとかやり過ごし、生き延びた話を、僕らは仲間内で交し合います。そうやって、物語ったり、物語られたりすることが、日々の心の支えになるのだ

    東畑開人『聞く技術聞いてもらう技術』p.173

     つながりのあるときの時間は治療的だが、つながりのないときの時間は破壊的だ。

    第4章 誰が聞くのか

     おせっかいに案外ひとは助けられます。「聞く技術」の本質は、「聞いてもらう技術」を使ってモジモジしている人に声をかけるところにあります。

    当事者であるときは話を聞いてもらい、第三者であるときは話を聞いてみる。立場は交互に入れ替わります。あるときには聞いてもらう側だったけど、別のときには聞く側になる。「聞いてもらう技術」を使うときもあれば、「聞いてもらう技術」を使っている人を見つけて「なにかあった?」と尋ねるときもある。「聞く」がそうやってグルグルと循環しているときにのみ、「社会」というものはかろうじて成り立つのではないでしょうか?

    東畑開人『聞く技術・聞いてもらう技術』p.234

    感想

     ああ美しいなあと。「循環」というのは学問のなかで惹かれたもののひとつであったと思い出された。対立するものを行ったり、来たり。矛盾のなかを自由に羽ばたいている感じ。素敵だ。

2024/01/15

【統計検定3級 合格体験記】勉強方法や試験対策を徹底解説!

 このたび統計検定3級を、独学2週間の勉強で一発合格することができました。このブログ記事では、私が実際に取り組んだ勉強方法や試験対策をご紹介します。

統計検定3級 合格までの勉強スケジュール

試験2週間前の勉強方法

 公式テキストを読み、章末問題を解き進めました。統計検定3級はほぼ高校数学までが試験範囲です。このため昔に勉強した内容を思い出しながら、主要な公式をルーズリーフにまとめて覚え直しました。一方で、正規分布や統計的な推測は数Bの範囲ですが私の高校では授業が無かったので、今回はじめて独学で勉強することになりました。

 ここで厄介だったのが、公式テキストが小難しく書きすぎていることです。高校範囲でありながら、大学の教科書のような書きぶりで、全く親切心を感じられないテキストなのです。このため年末に規制して数Bの教科書を引っ張り出して来ました。これを副読本とすることで、なんとか公式テキストの内容を理解することができるようになりました。

 その確率分布や統計的な推測の推測の範囲は、2020年4月に追加された新出題範囲で、過去問にない一方で、試験本番はがっつり6問ぐらいは出てきた印象があるので、この範囲を捨てるよりも少し頑張って理解したほうが良いと思います。

試験1週間前の勉強方法

 もう1冊買っていた問題集を解いたほか、ネットに5回分の過去問があったのでそちらを解きました。
統計検定3級過去問解説 - あつまれ統計の森

 過去問は30分程度で解け、いずれも30問中25問前後(83%)が正解できました。合格基準点が65点なので、落ちることはないだろうと思い、解き直しはせずに、前日は正規分布や標本平均の分野だけ、問題集を解き直して、臨みました。

勉強スケジュール

 StudyPlusのアプリで勉強時間を記録することが非常に励みになりました。その記録によると総学習時間は16時間37分だったようです。正月休みが長かったので、ちょうど暇つぶしになり、正月早々勉強に励んでいるという肯定感に役立ちました。

統計検定3級に合格!

 そして試験では94点で合格することができました。試験はCBT形式でパソコンに1問1問、問題が表示されます。このため出題順がランダムで、過去問の出題順に慣れていると少しびっくりします。また大問1つに小問複数みたいな問題はないので、それは楽だったりします。

統計検定3級のポイント

 確率分布、統計的な推測以外の内容は大きな問題は無いかと思います。

 ①正規分布を理解し、二項分布、標本平均、標本比率の近似が求められること
 ②標準化し、正規分布表を用いて確率を求められること
 ②95%の信頼区間を計算できること

 公式をよく覚えて、この3つができるようになってください。特に標準化の理解には、以下の記事が役に立ったので、おすすめです。試験頑張ってください!
偏差値の出し方・求め方は?正しい計算方法を専門家に聞きました!【高校生なう】

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